でも、きっといるはず!

 新型コロナウイルスと、今、波の一線が立ち上がり確実にこちらへ向かいつつある経済の「津波」を前に、何をなすべきなのかその判断に苦しむ毎日だ。あの時、25年前の大地震の時はどうだったのか。「ステイホーム」だからこそ回想してみる。

 地震3日後に大阪の事務所へたどりついた。途上で尼崎、大阪が比較的平常だったこと(その後、大阪は北部がひどく南部はそれほどでないこと)もわかった。何より東京が無傷だった。1人の事務所に東京から何本か電話が入ってきた。「やっとつながった!」「君は大丈夫か?大阪は?」「兵庫は誰も連絡がつかない、どうなってる?中継できるか?」「何が援助できる?」当時、私は約350名を束ねる大阪支部長だった。励まされ涙がこぼれた。それから動き出した。「まずは安否の確認だ!」。頼んで兵庫のメンバーの知りうる情報を提供してもらった。地震後の兵庫は壊滅的で悲惨だった。亡くなられたかたもいた。次は1月30日に控える新年祝賀会だった。大阪は比較的無事であることから、他の団体がすべて休止とする中、演題を変え募金活動を行うこととし開催を決意した。予想外に多くの人が集まってくれた。メッセージとともに募金箱に1万円札が月々と投げ込まれるのを見て胸が熱くなった。集まった浄財は、後日、兵庫のメンバーとともに、大阪支部に属しながら兵庫県在住の18名の被災者に配られた。ところがだ。その18名の中で支部長経験者の2名が「他の方へ」と辞退してこられたのだ。その志に唸り、現職支部長として私も当然それにならうこととなった。リーダーとはと考えさせらえる契機となった。

 バスが開通したので1月末になって初めて神戸の関与先を訪問した。その留守宅に、他支部の支部長が見舞いに来てくれていたことを聞いた。なぜ僕のところに?家中散乱し、しかも家族は別場所へ疎開していた。それから背を押され、彼らとともに神戸の避難所をボランティアで訪れた。当局と面談し震災税務を要望し、須磨、新長田、西灘の震災立体買換事業にも参加した。後で聞いたのだが、名古屋の銀行ディーラールームのテロップで、アメリカのオフィスで「神戸が大変なこととなっているらしい」と知り、奔走し連絡してきてくれた友人の陰ながらの思いも思い出すだけで泣ける。神戸は私が生まれ育った街だ。

 私は有事に強いはずだ。一歩先を見て行動できる。しかしそれは数々の援助があったからだ。無傷な人がいる。元気な人がいる。志の高い人がきっといるはずだ。この難局もそれを信じて行動していく。          代表:岡本

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